Vol.09 長野県大鹿村すべては生まれ育った村で
暮らし続けるために
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急勾配の道を登っていくと、格式高い大きな家屋敷が見える。村の中心部を見下ろす山の中腹にある「旅舎 右馬允」。1日に2組しか予約を取らないことから、幻の宿と呼ばれている。前島正介さんは、生まれ育った村で暮らすため、戦前まで造り酒屋をしていたという先祖代々の家を使って、旅館を始めた。「旅館をやろうと思ったのは、この村に暮らし、歴史ある家屋敷を守るため。家族や親戚には、山奥で旅館をやっても食べていけるわけがないと反対されましたけどね」
大学進学を機に上京するも、次第に村の生活への思いが募る。卒業後はすぐ村に戻り、旅館開業の資金を稼ごうと、隣町の建設会社で測量の仕事に勤しんだ。5年働いた後、28才で名古屋の調理師学校へ。夜は料理屋で板前として働く。その1年後、再び村に戻り、準備を本格的に進め、81年に開業。同時に結婚し、夫婦二人三脚でやってきた。 「何もないことがいいことだと見直される時代がきっとくる。そう思っていました」
正介さんは、開業前から時代の先を見越していたのだ。旅館が軌道に乗るまでは、測量の仕事を掛け持ちしながら生計を立てた。 「翌日に予約がある時は、山で測量の仕事をしながら、春は山菜を摘み、秋はキノコを探したり。測量しながら食材集めもできて、一石二鳥でしたね」
料理は正介さんが一人で行っていたが、ソムリエ、料理人としてそれぞれ都内のフランス料理店で腕を磨いた、長男と次男が数年前に帰郷。今では、3人で力を合わせて調理場を切り盛りする。またニューヨークでダンスの勉強をしていた長女の久美さんも8年前に戻り、ヨガの講師をしながら、旅館でサービスを担当する。「子どもたちがみんな帰って来て、やっぱりうれしい。まあ、喧嘩もありますけどね」と正介さん。一度はそれぞれの道に巣立つも、また故郷に戻り、身につけた技や知識を家業に活かす。ここには古き良き家族経営の形がある。
季節の地のものをたしかな腕で調理した、滋味深き料理はもちろん、前島家の客人を厚くもてなす心意気は、訪れる人々の心をしっかりと掴んでいる。 久美さんは、代々受け継がれてきたこの場所を拠点として、大鹿村の今を広く伝えようと、さまざまな取り組みを行っている。規格外や人手不足のために、畑に放置されている野菜を都会の人たちに届ける仕組みをつくったほか、要望があれば、畑の見学会や農作業体験をコーディネートしている。また村内を中心とした仲間とともに、村のこれからを考え、行動する「大鹿の100年先を育む会」を10年に立ち上げた。この村で育まれた風土や歴史、文化を尊重して、100年先もこの風景を残していきたい。会の名称にはそんな思いが込められている。
「これからの村のことついて同世代の人たちと話してみると、トンネルが村内を貫通するリニア新幹線の問題など、何かしら不安を抱えている人が多かった。ならば、自分たちで村を守るために、動いてみようと思ったんです。リニアだけを問題視するのではなく、もっと広い視野で、自分たちがこの村でどんなふうに生活していきたいのかをじっくり考えていく。そのための活動をめざしています」 その一つとして、豊富な自然が残る大鹿村の植生調査に力を注ぎ、定期的に山に入っては、そこにある植物の記録を続けている。正介さんは、「温暖化が進んで、子どもの頃はいなかったツクツクボウシやクマゼミが生息するようになり、昔は美しく保たれていた田畑も、高齢化して荒れたところが増えてきた」ともらしていた。直面している変化に向き合い、今あるものをどう捉えていくのか。久美さんは山を歩きながら、その答えを探し続けている。
大鹿村は、長く大切にされてきた幾多の本物が残る村だ。「旅舎 右馬允」もその一つであろう。「経験を通して感じたことを大切にして、本物を伝えられる人になりたい」という久美さん。ここで生まれたからこそ見るべきものがあり、できることがある。「家を守りたい」という正介さんの思いは受け継がれ、たしかな広がりを見せている。
古民家に、地域に、新しい風を注ぐ
福岡からの異端児
空につながっているような道を見た瞬間、
「ここだ!」と
活版印刷で小値賀を世界に発信する
インタビューは季刊「日本で最も美しい村」よりの抜粋記事です。