Vol.29 十津川村だから「山との対話」という原点に戻ろう
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山と共に生きてきた十津川村にとって、切っても切り離せないのが幾たびもの水害の歴史。 明治と平成に大水害が村を襲う。「山の手入れは自分たちの暮らしを守ること」と水害から学んだ。
「1889(明治22)年に起きた大水害で、当時の人口1万人のうち2489人が北海道へ移住し、開拓者として大変な苦労をされました。村に残った人々は、お金に代わるものはすべて持たせて送りだしたそうです」
北海道の原野は「新十津川村」と名付けられ、その後、「新十津川町」として栄えた。新天地の人々は、十津川村を「母村」、奈良県を「母県」と親しみを込めて呼び、今でも二つの町村は交流が続いている。
「親子というよりは、兄弟のような関係。今でも6月20日の開町記念日には新十津川へ駆けつけます」。お互いに合併せず、自立の道を選んだ「同志」。二つの町村に共通するのが「一致団結、不ふ とうふくつ撓不屈、質実剛健」。
更谷村長いわく、「それこそが十津川の魂で、その精神は新十津川でも同じように根付いています」。
2011(平成23)年8月、再び村を襲った紀伊半島大水害で村は甚大な被害を受けた。山は崩壊し、道路は遮断され、集落は孤立。山さえ崩れなければ人々は亡くならずにすんだ、その教訓から「山を守ることは山の民の責務」と、村を挙げて林業再生に取り組む。
戦後の復興と経済成長を支えた村の林業は、1960年代後半になると外材に押されて衰退、山の手入れがされなくなった結果、山は荒れ果てた。放置された森林は、二酸化炭素の吸収率が下がり、太陽光が差し込まない土壌は痩せ細って、根を大地に張ることができない。降った雨は土壌に浸透せず、表面を流れてしまうため、土砂災害にもつながる。山の手入れ=自分たちの暮らしを守る「危機管理」なのだ。そこで行ったのは、「山に再び価値を持たせる」ための挑戦だ。
「原木を切って売るだけでなく、村内で製材から、家や家具などの製品化まで一貫して行い、十津川の木に付加価値をつける仕組みを作りました」。一言でいえば、「山にお金を返していく」循環を作ること。「山にお金を生み出す価値があると知れば、所有者も関心を持って手入れしてくれるはず、そう考えました」
結果、十津川産の木材を使った家具職人が育ち、雇用の場も生まれた。年間、約30棟の十津川産材の家が建築されるなど、地道に成果を挙げている。
更谷村長は言う。「山の声を聞く、山と会話しようと思ってるんです」。山にはかつて「掟」があった。尾根筋や谷筋の木は切らないという自然の摂理にかなったルールだ。その掟を無視して切ってはいけない木を切り始めた。
「すべては金儲けのためです。それで林業はダメになった。だから『山との対話』という原点に戻ろうと考えました」
過酷な自然と共に生きてきた十津川村。「大切なことはすべて、一見すると哀しむべき水害が教えてくれた」と更谷村長。平成の大水害では、新十津川町から5千万円の義援金と、住民有志から3千万円もの大金が送られた。
「住民の誰一人として、不平不満を言うことなく、黙々と復旧に向けて頑張ってくれた。あの時を思うと本当に泣けてきます」
先人から受け継がれる十津川魂は、苦難を糧にアップデートされていく。
インタビューは季刊「日本で最も美しい村」よりの抜粋記事です。