Vol.31 中之条町六合「失ったら二度と取り戻せないもの」に囲まれて

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六合尻焼温泉 星ヶ岡山荘 女将 大谷郁美さん

旅館を営んでいた父や母の背中を見て育った子ども時代。
父親の一声で、六合にある宿を引き継ぎ、経営者になって3年目。
無我夢中で走ってきた若女将の奮闘は続く。

 実家は草津温泉で旅館を経営、二人の兄も家業を継いでいる。東京で子育てをしながら暮らしていた郁美さんに転機が訪れたのは、3年前。事情により後継者を探していた六合の旅館を急遽、任されることになったのだ。
 前の経営者から宿を続けていけない、と父のもとに相談が持ち掛けられたそうです。父は『六合は草津よりも面白いところだ。引き受けよう』と」。その大役が郁美さんにまわってきた。
 急な展開に、周囲を説得したり迷うヒマはなかった。「すべては父の一声でした。そういう父でしたから」と当時を振り返る。

 実家の旅館業を子どもの頃から手伝い、母や祖母の背中を見て育った。
「二人とも働きづめでしたが、ちっとも大変そうではなく、根っからのお商売好きでした。一方、旅館ではお客様のような顔をしていて、ご挨拶すらしなかった父ですが、お客様のお見送りは姿が見えなくなるまで、と幼い頃から教えられてきました」
 そのお見送りスタイルは、郁美さんにもしっかりと受け継がれている。
 一度やると決めたことは実行し、発想豊かなアイデアマンであったというお父様。館内の暖房に尻焼温泉のお湯を引いて利用したり、草津には片岡鶴太郎美術館を創設した。
「父は大学を中退して、実家に戻って旅館業を継ぎました。祖父が具合を悪くしたためです。当時、経営が苦しかった宿を再建させたのも父でした」

経営者として手腕を発揮したお父様は郁美さんが宿を継いだ翌年に亡くなった。この3年無我夢中で走ってきた。
「父から受け継いだ精神は大きいですね。こんな時、父だったらなんと言うだろう、父だったらどうするだろう。そう考えては自問自答する日々です」

 小学6年、3年、1年、3人の子どもの母でもある。「長女がぜんそく持ちだったこともあり、『田舎で暮らしたい』と。今では伸び伸びと育っています。外に出て『雨のにおいがする。今日は雨が降るよ』といった何気ない会話から、子どもたちの感性が鋭くなっているのを感じます」
 六合に来て3年。「この場所が好きになりました。六合のいいところは、何もないところ。何もないからこそ、星は綺麗だし、空気も毎日違います」。春になれば色とりどりの花が咲き、新緑の時期にはみずみずしい緑で山は輝くが、お邪魔した2月初旬は、雪も少なくまさに「何もない」時期。
「今はご覧の通り何もないですが、福寿草やクリスマスローズが芽を出し始めて、咲くための準備を今まさにしているところ。力強い生命力を感じます」

 そう言われて、「何もない」との「何」とはそもそも何だろうと想像してみる。あるいは「何でもある」とは何を指しているのだろう?「何」はいったい「何」? 今のわたしはこの変数である「何」に「何」を当て込むのだろう。そして都会から移り住んできた、郁美さんだから気になる六合のこと。

「六合はとても自然豊かで美しい場所だし、人も面白い。だけど、ここに住む人はとても控え目。もっともっと伝えて欲しい。六合が素晴らしいこと、人が素晴らしいことを」
「日本で最も美しい村の新聞にもある通り、『一度失ったら二度と取り戻せないもの』がある。いま、六合の中学校が統廃合される可能性があるのですが、六合という集落そのものもこの先、なくなってしまうのでは、と心配しています」

 六合の子どもたちは地域への誇りやふるさと愛が強い。学校の授業で山菜の天ぷらを揚げたり、地元の陶芸家のもと、土から採取して陶芸を習うなど、この土地の魅力、資源を活かした学びがあるのも特徴とのこと。

 毎年、5月に開催されるイタリア発祥のヴィンテージ自転車レース「エロイカ ジャパン」の時期には、300個のおにぎりを提供するなど、宿は選手を支えるエイドとしても貢献している。
「母はサービス精神旺盛な人でおにぎりも鮭をたっくさん入れてにぎります。お客様への姿勢は父や母、祖母から教わったことがたくさんあります」

 宿は静かに過ごせる落ち着いた雰囲気で、何度入っても湯疲れしない、お湯の柔らかさも魅力。歩いて行ける距離に川そのものが大きな露天風呂である尻焼温泉がある。夏休みの時期になると家族づれで賑わう露天風呂だが、今の時期はゆったりと独特の川湯の風情に浸ることができる。

 女将が目指すのは「居心地の良い旅館」。オープン以来、宿は常に少しずつリノベーションを重ね、もと物置部屋だったところは、宿泊客がコーヒーを楽しめるスペースに変えた。館内のいたるところに、山野草がさり気なく飾られている。ロマンあふれる宿の名前は、先代が好きだったという芸術家、北大路魯山人にゆかりのある料亭にちなんでつけられた。
「兄たちと宿の経営について話すことはあまりありませんが、『もっとインバウンドを増やさなくちゃダメだ』とも言われます。ただ、お客様は『何もしない贅沢』を楽しまれている方が多いので、私としては、『静かに過ごせる』ことを一番大切にしたい。貫くところは貫く、そんな姿勢でこの先も宿を守り続けたいと思っています」

TEXT: Hideko TAKAHASHI / PHOTO: Hiroyuki TAMURA / ENGLISH TRANSLATION: Yuiko HOSOYA & Chika NAKANISHI / DESIGN:EXAPIECO, INC